水巻町テニス同好会

遠賀郡水巻町でテニスを楽しんでいる同好会活動などを広報します。

歩いて五分の静かな理髪店通い始めて十年に

頃末南

家から歩いて五分のところに、夫婦二人で営む小さな理髪店がある。

開店して十年。

最初は一式1600円だったが、今は1900円になった。

それでも十分に安い。


扉を開けると、FMラジオが小さく流れている。

天気予報や音楽が、静かな空間に薄く溶けていく。

しかし「いらっしゃいませ」という声は返ってこない。

夫婦は手を止めず、軽く会釈するだけだ。

私はいつものように二人に「おはようございます」と声をかける。


この挨拶の習慣は、若い頃の会社の先輩の影響だ。

バスでもタクシーでも店でも、先輩は必ず「ありがとう」と言っていた。

その姿が自然と身に染みて、今でも私は挨拶を欠かさない。


店の中は、驚くほど静かだ。

ラジオの音以外は、ハサミのリズム、湯を張る音、タオルを絞る音だけ。

客もまた、誰一人として話さない。

先日も、私の後に三人のシニア男性が入ってきたが、

全員が無言で椅子に座り、無言で切られ、無言で帰って行く。

この店では、それが当たり前の作法らしい。


私は八年前、抗がん剤を飲んだ影響で、頭頂部だけ薄くなった。

医師は「また生えてきますよ」と言ったが、

結局、進行しなかっただけでもありがたいと思うようになった。

バリカンで刈り上げていた頃は、その薄さがやけに目立った。

今はハサミで丁寧に整えてもらう。

夫婦の手つきは無駄がなく、必要なことだけを淡々とこなす。

言葉は少ないが、仕事は誠実だ。


会計のときだけ、夫婦は必ず声を出す。

「ありがとうございます」

その一言が、店の静けさの中で、妙に温かく響く。


私は「ありがとうございました」と返し、店を出る。

歩いて五分の帰り道、

さっきまでの静寂が、まるで別の世界の出来事のように思える。

十年続く店には、十年分の空気がある。

派手さも華やかさもないが、

静かに、淡々と、必要なことだけを積み重ねていく――

そんな生き方を見ているようで、私は嫌いではない。


挨拶をするのも、黙って切られるのも、

どちらもその人の流儀だ。

私は私の流儀で、これからも扉を開けるたびに「こんにちは」と言うだろう。

そして、夫婦の「ありがとうございます」を聞くたびに、

今日もまた、ここに来てよかったと思うのだ。